江戸文化を知ろう―江戸文字について

 書道から言えばお家流がありますが、それは幕府の公文書に使われ庶民の生活から生まれた文字、歌舞伎の「勘亭流」相撲の「相撲文字」寄席の「寄席文字」千社札の「千社札文字」総して江戸文字と言います。千社札だけが職業に関係なく個人の世界のもの、絵師、文字師、彫り師 摺り師と工程を経て和紙に仕上げる一枚の庶民芸術の札。江戸時代はお家流を少し個性的にした程度で、ちょうちん屋が兼ねる場合が多かったそうです。専門の書き手では生活ができず、副業で書の好きな人が道楽のつもりで始めたのがきっかけで注文がきて一生やるはめになった例もあり、江戸末期頃の「田キサ」「田てう」明治に入り署名を残した人は何人もおりますが、明治、大正、昭和にかけては初代二代の「高橋 藤」「太田櫛朝」が居ります。所属の納札会の書家としてレタリング形式で書体を創り千社札文字を確立させました。
「二代目高橋 藤」亡き後「鈴木本和」が受け継ぎました。 

 江戸の勇みの象徴とも言える町火消しが、組印に定着させた書体を力文字、伊達文字、撥鬢文字、纏文字などと呼んでいる。火消し着用の革羽織、印半纏、刺子の長半纏など、背の代紋や襟に染め付けた組印の書体は、起筆、終筆とも力を入れて極端に肉太とした書体で、いかにも力文字と呼ぶのに相応しく江戸町火消しの心意気と威勢と誇りを示す豪儀で粋な印となった。
火がかりに命を落とす火消しは、神の加護を願ってこれを加護文字としている。ともあれ、纏や半纏に印した組名・役職の文字は火急の中で夜目遠目、力強く頼もしい表示となり、その伊達な書体は一早く千社札や職人たちの半纏の表示文字となった。

 その他に、大工や左官その他の職人たちの印半纏の腰に印した角文字がある。これは町火消しの組頭用半纏の腰印からの援用だったと思われています。これらの半纏の背鏡、襟文字、腰文字により職種、役職、屋号は認知されたことから半纏が看板と呼ばれる由縁でもある。 

 
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